「観濤」は、文字通りいえば、濤、すなわち大きな波やうねりを観るという意味だといえましょう。時代のうねりを観て感じ、その先駆けたらんという気負いをその文言に託し、新会社を観濤舎(かんとうしゃ)と名付けました。

  実はこの「観濤」は、近代を代表する先覚者で大実業家だった益田孝が、「鈍翁(どんのう)」と並び好んで用いた号の一つでもあります。

 旧幕臣である益田孝は、明治9年に日本経済新聞の前身となる『中外物価新報』を創刊、同年には世界初ともいわれる総合商社、三井物産を設立し初代の社長に就任します。29歳のときでした。この事業を大成功させた彼は三井財閥の総帥として辣腕を振るい、近代日本経済の基礎を築いていくのです。

 彼は、伝統文化や芸術をこよなく愛する人でもありました。幕末明治の混乱期、日本から大量の美術品が海外に流出しました。この状況に危機感をつのらせ、彼は私財をもって優れた美術品の買い支えに奔走したのです。「優れた見本さえ残っていれば、一時的に断絶しても伝統は継承できる」と考えたからといいます。ただ、倉庫に山積みにしておくだけではつまらない。使ってみようかと「お茶」を始め、ついには「利休以来の大茶人」と称されるようにもなりました。

 その益田孝にあやかり、足元に一歩でも近づきたい。それが社名に込めたもう一つの思いでもあるのです。